理想の恋愛 完璧な愛・第12部(完結編)

第5章7(複雑な師弟関係)

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「美春ちゃん、風邪でもひいたの?」
 くしゃみをしたわけでも咳をしたわけでもない。喉が痛くて声が変わった、というわけでもないので風邪疑惑を持たせてしまう要素はないのだが、秘書課のオフィスに入ってすぐ詩織にそう声をかけられ、美春はゆるりと足を止めた。
「ひいてないけど、どうして?」
「んー、なんかね、今日はいつもより動きが緩やかだなぁ……って」
「緩やか? 動きがノロいってこと?」
「うん、だから、風邪でも引いて具合が悪いのかって思って」
「別に具合は悪くないし……、それどころか気分がいいくらい」
「先週もこんな日があったような……、あっ……」
 自分で疑問をぶつけておきながら、どうやら詩織は答えを出してしまったようだ。両手をパンっと叩き、納得とばかりに首を上下させる。
「櫻井係長がいないからだっ」
「……は?」
 詩織の回答に躊躇するも、美春自身思い当たる節はある。

 さくらが会社に出られないときは、櫻井が会長第一秘書代行を務めている。
 ただでさえ毎日忙しい彼。「尊敬するさくらさんの代行を、間違いのないよう務めあげなくては」という緊張があるだろう。
 そんな中で美春の指導までは手が回らない。つまり櫻井が秘書代行の仕事に就いている間は、ノロノロ歩いていても「亀か!!」と怒鳴られることもなく、オフィスの中央に立っていても「通路の真ん中で突っ立つな! お前はただでさえ女にしてはでかいんだから邪魔だ!」と、余計なお世話的注意を受けることもない。
 ……ついつい、気が緩んで動きもスローになるというものだ。

 この解放感に表情を緩め、美春は頭に手を当てた。
「なんかねぇ、怒鳴られることもないと思うと安心しちゃって……。気が抜けるのよね」
「え? 安心してるの? 寂しくて具合が悪いとかじゃなくて?」
「どうして『寂しい』になるの」
「だってぇ、美春ちゃんと係長仲良しだし、見てて面白いし」

 美春は閉口するが、確かに行動を共にしている時間で考えれば、学の次に多いのが櫻井だ。
 入社当時には、「苛めたら無条件で首が飛ぶぞ」と社員達の間で噂された“無敵の光野さん”を、毎日のように丸めた書類でポコポコポコポコ叩いて愛の鞭を与えている櫻井。首が飛ぶどころか“専務のお傍付き”と周囲に認知され、本来ならば一カ月程度であったはずの光野女史教育係も未だに続いている。
 “光野女史は櫻井係長と仲が良い”と思われても無理はない。

(まぁ、口が悪いのを覗けば、仕事が出来る人だから尊敬できるし……。頼りにもなるし、たまに優しいし、いい人ではあるよね……)
 おまけにさくらの代行をつつがなく務め、一の力になってくれている。本来なら代行に就くはずだった柵矢室長が強く彼を推しただけのことはあり、その推薦は間違いのない結果を生んでいる。

 少々不満気だった表情を和め、美春は小首を傾げた。
「そうね、確かに気が引き締まらないし寂しいかな。私、係長、好きだし」
 何の下心もなく出た言葉ではあったが、深読みをしたらしい詩織は慄いて一歩引いた。
 彼女がとった態度の意味に察しをつけ、美春は苦笑する。
「おかしな意味とは違うからね、変なふうに取らないでよっ」
「アハハっ、分かってるよぉ、美春ちゃんが専務以外に……なんて、この世の終わりが来たって有り得ないって、みんな分かってるし」
「大袈裟ねぇっ」
 オフィスの中央で、詩織とふたり立ち話。おまけにアハハと笑い合っている姿を櫻井に見られたら、いったい何と言われることだろう。
 きっと、「余裕だな、暇なのか? よーしよーし、仕事をあげような、こっちおいで」と襟首を掴まれ、専務室へ引きずっていかれるに違いない。

 だが、彼には現在そんな余裕はない。いつも以上に忙しい仕事をこなすことで精一杯だろう。
(フフーン、残念でしたぁ、まぁ、戻って来たらコーヒーの一杯でも淹れて労わってあげようかな)
 本人が目の前にいないのを良いことに、美春は心の中で意地悪を囁く……。


*****


「櫻井君、風邪かい?」
 今までキビキビと動き回っていたのだから、そんな訳でもないだろう。だが、車に乗り込んだ途端に眉を寄せ、寒気がするとでも言いたげに腕をさすった櫻井を見て、一は問いかけずにはいられなかった。
 車のエアコンが効き過ぎているわけではないので、風邪気味だったものを抑えていた薬が切れてきたのかと考えたのだ。
 だが櫻井は控え目に苦笑し、背筋を伸ばして後部座席のドアを閉めた。

 会長専用のBMWが音も静かに動き出す。一の問いを苦笑いで誤魔化したままにするわけにもいかず、櫻井は感じたままを口にした。
「一瞬……、悪寒のようなものを感じまして……。いえ、風邪ではありません。御心配を頂き恐縮です」
「悪寒? 奥方と喧嘩でもしたのかい? 彼女は大切な身体なのだから、あまり気を煩わせてはいけない。女性に恨まれると怖いからね、悪寒で済んだならば良い方なのではないかな?」
「……会長……、まさかそんな目に遭った経験がおありで……?」
 恐る恐る訊ねてみる。誰が見ても仲睦まじいさくらとの間に、そんな愛憎感生々しい出来事があったとも思い難い。そして思惑通り、アッサリとした答えが返ってきた。
「無いな」
「そうですよね」
 驚きに固まった胸をホッと撫で下ろすが、すぐに真実味のある意見が一から出されたのだ。
「おおかた美春君が、急に忙しくなった君を労わってあげようとでも画策しているのではないかな。彼女ならそんな楽しいことを考えそうだ」
「そうかもしれません。普段、ちょっと厳しく指導し過ぎている面もあるので」
 笑顔で返すが、櫻井の頭の中では“光野女史連打用”の書類の束がくるくると丸められていた……。








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