理想の恋愛 完璧な愛・第12部(完結編)

第9章1(動き出す歯車)

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 ――――秘書を、交換しましょう。

 美春の耳の中で、いつまでもその言葉は響き続けていた。
 言葉の意味を、頭は何度も繰り返し理解しているのに、それを間違いなのだと思い込もうとするかのように、再確認をも繰り返す。
 だが、何度確認しても同じ。そして、そこにある真実も変わり得ない。
 アランが望んだのだ。
 美春とグレースを交換し、美春がアランの秘書となることを。――それと同時に、“妻”になることを。

 それが、提携を結ぶ上での条件であり、さくらを襲う奇病の抗体を渡す、引き換え条件。

「美春、どうした、大丈夫か」
 何度目かの呼びかけで、美春はやっと自分が震えているのだということに気付いた。
 アランとグレースが会議室を出て行ってから、見送ることもできないまま床に座り込んでいた美春。支えてくれている学のスーツを両手で握り、いつの間にか全身がカタカタと震えていた。
「まな……、ぶ……」
 美春の瞳は、やっと目の前にいる愛しい人を捉える。
 心配そうに美春を見つめる優しい目も、身体を支えてくれるこの力強さも、労わり慰めるこの温かさも。いつも通り、当たり前に美春の傍にあるものだ。
 だが……。

 ――――ミハルには、僕の秘書となり妻になってもらう。

 学の温かさを沁み込ませようとしていた身体が思い出すのは、アランの言葉。
 その衝撃に美春は身体をビクンッと跳ね上げ「ひっ!」と恐怖を全身で表した。
(私が……? アランの……)
 そんなことが考えられるものか。美春は学の秘書であり、彼の婚約者だ。それはこれからも変わらず、秘書であり妻である立場になるべき女性ではないか。
(アランの……妻?)

「美春、おい」
 彼女の様子があまりにもおかしいと気付き、学は美春を腕に抱き直し、顎を掴んで軽くゆすった。
 小刻みな身体の震えは止まらず、冷や汗が浮かんできたようにもみえる。大きく震えあがった直後から、呼吸の仕方もおかしい。
「美春! おい!」
 学は彼女を呼びながら掌で頬を叩く。見開かれていた瞳には覇気が無く、固まった表情は震える以外動きを見せない。
 学はそのまま美春を両腕に抱き上げた。

「専務! 失礼致します!」 
 いきなりドアが開き、櫻井が飛び込んできた。余程慌てていたのか、ノックも無しになど彼らしくない。
 だが彼とて平静ではいられないだろう。テレビ会議用のカメラで会議室の一部始終を見ていた櫻井は、全身を包む憤りと悔しさで今にも爆発してしまいそうだ。
 しかし、学の腕に抱かれカタカタ震える美春を見て、まずは彼女が先決であることを悟る。
「櫻井さん、医務室へ連絡を! 処置室にも、早く!」
 指示を出し、学が会議室を飛び出す。
 怒鳴り声に近い学の声を遠くに聞きながら、美春の意識はブラックアウトした。


*****


「室長は、本当に煙草を吸わなくなりましたよね」
 デスクの隅に置かれた、小さな曇りガラスの灰皿を覗き込み、研究室室長付きの秘書である天野洋は苦笑いをする。
「まぁ、こんな物が貼ってあっちゃ、灰も落とせませんよね。家でも吸ってないんですか?」
 灰皿の底には証明写真サイズのシールが貼ってある。そこに映っているのは美春の笑顔だ。
 目の中に入れても痛くないどころか、入っていてくれるなら嬉しくなってしまいそうな愛娘の顔に、煙草の灰なぞ落とせるはずもない。大介は目を通していた学会関係の雑誌から顔を上げ、苦々しい表情を作る。
「家ではね、妻が泣きそうな顔で言うんだよ『一般的に、男の人の方が寿命が短いわよね』って。おまけに娘は、顔を見るたびにポケットの中を探っては煙草を持っていないか検査をするし。そこまでされて吸えると思うかい?」
「おまけにデスクの灰皿には娘さんの笑顔。……これじゃぁ無理ですよね。吸ったとしても、この写真の上に灰なんか落としたら、娘さんのファンに闇討ちにされますよ」
「……そう思うなら、違う灰皿を用意してくれるとかないのかい? 秘書だろう、天野君」
「娘さんに言われてるんですよ。『お父さんが煙草吸ったら教えてくださいね?』って」
 大介は、やっぱりなという思いを込めて鼻で息を抜く。予想通り、天野も美春のファンらしい。
 大介を訪ねてきた美春が、彼女を見た研究員たちにアイドルのように祭り上げられたのは大学三年の時。「光野室長のお嬢さんは美人だ」という話と共に噂は広がり、専務の婚約者と認知はされていても、彼女は今も変わらず葉山製薬のアイドルだ。
 その発祥となった開発部には、特にファンが多い。

「今考えると、昔はかなり吸っていた時期があるよ。躍起になって研究と論文に没頭していた時期があってね、その時期は酷かった」
 一瞬だけ当時を思い出し、すぐに忘れようと、大介は灰皿に視線を移した。
 灰皿に美春の顔写真をシール加工したものを貼っていったのは一なのだ。エリに止められ、美春にも注意され、一日三本程度に減った頃、「私が吸っていないのに、何故いつまでもお前が吸っている。お前に早死にされてはつまらん」と、絶対に灰皿を使えない仕掛けを施していった。
(まったく、一は……。僕があいつの気に入らないことをすると、我が物顔で止めに入る。昔からそうだ)
 少しだけ幼馴染の愚痴を胸中で呟く。すると室長室のドアがノックされ、絶妙なタイミングで一が現れたのだ。
「会長、どうされました?」
 素早く対応に出た天野に、一は席を外すよう言い渡す。秘書も付けず単身で来たようなのでプライベートな話なのかもしれない。
 天野が部屋を出ると、今度は大介が立ち上がった。
「何かありましたか会長。私に何か御用で……」
「大介」
 仕事用の顔で対応した大介だが、一は彼の前で仕事用の顔を解く。
 デスクの前へと近付き、彼は小さな灰皿の横に銀色のシガレットケースを置いた。
「何だ?」
 それを見つめ大介が問いかけると、一は静かな声で用件を切り出す。
「会長としてではなく、お前の幼馴染として、……頼みたいことがある」
 大介は眉をひそめた。
 もしかしたら、そんな話をされるかもしれない予感は、ずっと彼の中にあったからだ。
「煙草が必要だろう? 何本吸っても構わん、エリさんが何か言っても私が言い訳しておいてやる」
 シガレットケースを見つめていた視線を一へと移し、大介は真剣な声で訊ねた。
「その頼みは……、さくらさんのためか?」
 対峙したまま、ふたりの間に沈黙が走る。静かな声で「そうだ」と答えた後、一は灰皿に貼ってあった美春のシールを剥がし、大介に突きつけた。
「――そして、“私達の”娘のためだ」

 目の前で微笑む愛娘の顔が、愛妻の笑顔と重なる。
 言葉少なではあるが、一が言わんとしていることは大介の全身に大きな衝撃を落としていた。
 昔、一が大介の名誉のために、エリをこの先悲しませないためにも封印させたものを、今、さくらと美春のために解けというのだ。

 大介は一の手から美春の笑顔を受け取ると、シガレットケースを手に取り蓋を開いて内側に貼りつける。
「――分かった」
 ひと言だけ呟き、白衣のポケットへ入れて握り締めると、滅多に見せない厳しい表情で一を見据えたのだ。
 二十五年前に封印した、研究者の表情で。


 大きな運命の歯車の裏で、それを支える歯車達が、動き出した――――。







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後書き

 こんにちは。玉紀直です。
 第9章スタートします。
 またしばらく、お付き合い下さいね。

 第8章ラストの続き、プロローグの延長のような形で始まりました第9章。
 美春ちゃんが動揺するのはもっともです。
 そんな彼女のために学君が奔走するのは当然なのですが、他にも、彼女を大切に思う人達が動き出しますよ。

 だからといって、すぐすぐ何とかなるわけではありません。
 体調に変調をきたすほどショックを受けた美春ちゃんですが、これについて、少しおかしな疑惑が浮上します。

 第9章も、宜しくお願い致します!







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