理想の恋愛 完璧な愛・第12部(完結編)

第9章4(愛しさと桜と)

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「専務を信じて、おかしなことは考えないように。良かれと思っての先走りは、教育係の僕が絶対に禁止をする。上司の指示だ、きいてもらうよ」
「係長……」
「言うこときかなかったら、もう、ドーナツ買ってやらない」

 美春は浮かび上がってくる涙を止めることができなかった。
 会議室での一件を、知っている者も知らない者も、どれだけ美春を気にかけてくれているか……。
 痛いほど、辛いほど、申し訳ないほど、それが分かる。

 美春は泣き顔のまま、にこりと笑み、いつもの憎まれ口をきいた。
「今回、ドーナツ買ってくれたのは、須賀さんじゃないですか」
「じゃぁ、いうこときいたら、この仕事が終わった後にでも買ってやる」
「何個ですか?」
「いっぺんに買っても食べきれないだろうから、一日一個、一年分だ。問題はないだろう? 女史はずっとここにいる、専務の秘書として。そうだろう?」

 涙が頬を流れた。
 アランが突き付けた条件に対して、美春が先走らないようにと心を配してくれる櫻井の気持ちが、嬉しくて堪らない。

 学が櫻井に礼を込めて微笑みかけると、彼には珍しい照れ臭そうな会釈が返ってくる。

 美春は下唇をキュッと噛んだ。
 負けてはいけない。
 振りかかったこの難題から、一番逃げてはいけないのは美春自身なのだ。

 三人の間に明るい空気が漂い始めた時、給湯室から出てきたふたりが、この光景を見て目を丸くした。
「ちょっ! 櫻井さん! 何で光野さんを泣かせてんですか!」
「何を苛めてるの、りっくん!」

 「俺は苛めてない!」と冴子に言い訳をする櫻井を見ながら、学と美春は笑い声を立てる。
 正当な理由で庇ってあげられないのは、辛いところだ。


*****


 先週の水曜日から眠り続けているさくらは、仕事帰りに学と美春が訪れた時も目覚める気配は見せなかった。
 一週間以上続くこの症状に出来ることは、投薬と監視だけ。
 未知の難病に危機感を示した斉は、クライン・レビンを研究している欧米の博士に相談をしてはと提案したが、故意に発症させられた状態を部外者に知らしめるのは得策ではないと、一は主治医の案を却下した。

 その日、一がさくらの元を訪れたのは、学と美春が様子を見に来てから三時間ほど経った後だ。
 いつものように手を握り話しかけていると、彼女の手がピクリと動いた。
「……さくら?」
 静かな呼びかけに誘われ、さくらの瞼がゆっくりと開く。
 久々の目覚めに、一は不安から心が騒ぐ。さくらは、また退行現象を見せるのではないかと。
 一週間も眠り続けた名残なのか、前回まで見せていたように、さくらはすぐに反応を起こさなかった。ぼんやりと天井を見つめる目はどこか虚ろだ。
「……さくら」
 呼びかける一の声に、握り締めた彼女の手がピクリと反応し、首がゆっくりと傾いた。
「――……くら……」
「何だ?」
 小さな呟きに、一は耳を近付けもう一度言うよう促す。
 さくらの唇は、微かな吐息で希望を伝えた。
「さくら……」
 自分の名前を口にしているわけではないと、一はすぐに察する。弱々しくはあるが、その発音は、彼女の名前とは違う。
 一はふっと微笑み、さくらの手を両手で握った。
「……桜が、見たいのか?」

 さくらの口元が、微かに笑んだ。


*****


 葉山家の裏庭には、ちょっとした植物園と言っても過言ではないほど大きな温室がある。
 辻川家にあるものよりは規模的には小さいが、それでも中は広く良く整備されていて、一周すれば充分な散歩コースだ。
 学や美春も、幼い頃から良くこの場所で遊び、今でも時々ふたりで歩く。
 温室内は四季折々の様々な花が咲き、一年中賑やかだ。まるでこの場所だけ季節の感覚がなくなってしまったかのようにも見える。

 そんな四季感を一番に失わせているのは、何といっても一本の桜の木だ。
 幹が太く、歴史を感じさせる桜は、一年中温かな場所に置かれているせいなのか、ほぼ一年中花を付けている。
 桜の時期である春には満開になり、そのほかの季節にも、六から八分咲きになり優美な姿を見せ続けてくれているのだ。

 この桜は、一とさくらが出会った時の、思い出の桜だ。

 さくらの故郷、桜花村の御神木だったこの桜を、彼女が葉山へ来た時に温室へと移したのだ。
 地主であったさくらの父が、村の宝である桜を持ち出すことを許してくれた。幼くして村のために故郷を離れる娘を、きっとこの桜が守ってくれると。
 さくらに託された想いと、ふたりの思い出を守るかのように、桜の木は葉山家に根付いた。

 さくらにとって、そして一にとっても、宝物のように大切な思い出の桜。
 学と美春が出会い、幼い愛をかわしたサンルームを大切な場所としているように、この桜の下は、一とさくらにとって大切な場所なのだ。

「ほら、さくら……」
 その大切な場所に、一はさくらを抱きかかえて立っていた。
「私達の、桜の木だ」
 虚ろな状態から覚醒しないままだったさくらの目が、舞散る花びらを映す。首を軽く傾け、彼女は桜色の天を仰いだ。

 数時間の外出許可をもらい、一はさくらを病院から連れ出した。
 彼女が望んだ桜を、見せてあげたかったのだ。

「……桜……」
 一の腕に抱かれたさくらが瞳を潤ませる。生まれた時から彼女を見詰め続けて来た桜は、久し振りに見るさくらの姿を喜ぶように、薄桃色の花びらを彼女の頬に落とした。

 さくらは胸で組んでいた手を一のスーツに添え、頭をしな垂れかける。
 笑んだ口元に、花びらが涙を隠しながら零れ落ちた。
「一さん……、明日も、……この桜が見られるかしら……」

 一はひと言、「勿論だ」と答え、愛妻を抱き締める。

 真夏だというのに、満開に近い桜の木。
 ふわりと舞い踊る小さな花びらたちは、ふたりを慰めるように、寄り添い合う身体を包み込んだ。


 そんなふたりの姿を、大介が遠くから見つめていた。
 桜の木の下で寄り添うふたりから目を逸らし、彼は迷うことなくある場所へ向かう。
 温室の最奥。目立たぬよう木々の陰に隠された重厚な扉。その前に立ち、彼は、白衣のポケットの中でシガレットケースを握る。

 そしてその扉を、重々しく、ゆっくりと開いた……。









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