理想の恋愛 完璧な愛・第12部(完結編)

第9章8(始まりの朝)

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「おはようございます。専務、光野さん」
 葉山製薬本社ビル。朝のエントランスに響く柳原の元気な挨拶は、最早名物だ。
 シフトの関係で必ずしも彼が毎朝立っているわけではないが、それでも、週明けの月曜日の朝に彼の姿が見えただけで、仕事始めの気合をもらえる気持ちになってしまう。
 学や美春も、彼の快活さがお気に入りだ。
 それなので、彼の挨拶がどこか元気がないと、それだけで驚いて立ち止まってしまう。

 それが、今だ。

「……どうしたの……、柳原さん」
 美春は軽快に進めていた足取りをピタリと止め、控え目に声をかけた。足を止めてしまったのは学も同じだ。
 まだまだ新婚の柳原のことだ、もしや夫婦喧嘩でもしてしまい、謝るにも謝れなくて落ち込んでいるのでは……。彼ならば有り得そうな想像を巡らせてみるが、彼が消沈しているのはそんなことではなかった。
「あの……、専務に、お客様が来ていて……」
「お客様? こんな早くから、予定にはないわよ?」
 早朝のエントランスを行き来する社員は、交代で夏季休暇を取っている時期ということもあり、いつも以上にまばらだ。それでも出社ラッシュ時間になればエントランスも賑わうだろうが、そんな時間よりも早くやってくる客など想像もつかない。
 不思議そうに顔を見合わせる学と美春を見て、柳原は何とも複雑そうに説明を続けた。
「あの……、ロシュティス社社長の、秘書の女性です。……ひとりで来たんですけど、最初は専務室へ通してくれって言われて……」
「専務室に? まさか通したの?」
「いいえ、専務も光野さんの来ていないのに、そんなことはしません。いつもの応接室に入って頂いています。けれど、それが気に入らなかったらしくて……『どうせ専務の秘書になるんだから、専務室に入れてくれたら良いのに』って……」

 美春は血の気が引く思いだ。
 先週の出来事の後、グレースの方から、これからの予定は追々話し合っていきましょうという、何ともハッキリとしないメールが来ていたのだが、まさか週明けから彼女がひとりでやってくるとは。
 それもアラン側は、自分の条件を当然こちらが呑むだろうと決め付けているようだ。グレースの「どうせ秘書になる」という発言がそれを確証付けているではないか。
 この件に関しては、何ひとつ返事をしていないというのに。

 言葉を失う美春を横目に、学は柳原に訊ねる。
「彼女の対応をしたのは? 柳原さんだけ?」
「あ、自分だけです。まだ、エントランスに人もいなくて……」
 すると、学の人差し指が真っ直ぐ唇の前に立った。
「有難う。早速行って、対応しますよ」
 厳粛な口調と視線に、柳原は立てられた人差し指の意味を悟り、ごくりと息を呑む。

 これは、決して口外してはいけない。
 柳原は背筋を伸ばし「はい」と返事をして頭を下げた。

 学は美春の背をポンッと叩き、彼女を促してエレベーターホールへと向かう。
 グレースが何故ひとりでやって来たのかは分からなかったが、もしかして彼女とだったら、ごり押しではなく落ち着いて話し合いができるのではないか、美春は微かな希望を持つ。
 以前、紅茶の話や、アランとは幼馴染なのだという話をしてくれた彼女を思い出したのだ。
 彼女はアランと特別な関係にある女性だ。彼女だって、秘書を交換するなどという話には、納得できない感情を持っているに違いない。美春はそう信じ、学の後に着いて応接室へと向かった。


*****


「おはようございます」
 応接室のドアを開いた途端に響いた、毅然たる声。
 椅子に腰を下ろして待っていたグレースは素早く立ち上がり、颯爽と歩み寄って来た。
 ふたりの前へ立ち、チラリと美春を見てから学へ笑いかける。
「本日は、葉山専務と親交を深めてくるようにと社長から指示されてきました。ですので、少しばかりお時間を頂ければと思うのですが」
「親交?」
「はい。いずれ、お傍で仕事をサポートさせて頂く身です。葉山専務という方を知っておく必要がわたしにはありますし、葉山専務にも、わたしを知って頂かなくてはなりませんから」

 まさか、こんなにも早く選択の現実を突き付けられてしまうとは思わなかった。
 アラン側は、条件に対するこちらの回答など、待つつもりはないのだ。
「それと、ミハル」
 グレースに呼びかけられ、美春は不安の色を湛え始めた瞳を上げる。そこに映ったグレースは、更に瞳の不安を濃くさせた。
「アラン社長が、あなたを呼んでいます。宿泊先はご存じね? わたしが専務と親交を計る間、あなたには社長と親交を計ってもらいたいの。今日は突然来てしまったから、一、二時間、といったところかしら」
「アラン……社長と……?」
「ええ。あなただって、新しいボスとは色々と分かりあっておいた方が仕事がしやすいでしょう?」

 美春は両手を強く握り締めた。例え数分であっても、単身アランの元へなど行きたくはない。だが、こちらの意思も確認しないまま勝手にことを進めてしまうのは酷くはないか。
 学はまだ、何の返事もしてはいないのだ。
 グレースと話し合いができればと思ったが、これではとりつく島もない。やはりアランと話をしなくては駄目なのだろう。
「分かりました」
 美春はグレースから視線を逸らし返事をすると、学を見上げた。
「昼前にアポがひとつ入っていますので、それまでには戻ります。御機嫌伺いのつもりで、ご挨拶だけしてきますね」

 美春の回答に眉をひそめた学ではあったが、彼女の気持ちを察し、柳原を同行させるよう指示を出したのだ。








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