理想の恋愛 完璧な愛・第12部(完結編)

第14章9(天使の恩返し)

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「どうかしたの?」
 弓が弦から離れ、奏でられていた穏やかな音が途切れる。
 仕事に支障がない程度のBGMではあったのだが、彼がパソコンのキーを叩く音に乱れが出たことに気づいた紗月姫は、何かあったのかと演奏を止めたのだ。
「もしかして、私が間違ってしまったせい?」
 ヴァイオリンを肩から外し、紗月姫は可愛らしくはにかんで見せる。すると、モニターから視線を上げ神藤が微笑んだ。
「間違われたのですか? 気づきませんでした」
「当然よ。間違ってなんかいないもの」
 スキップせんばかりの様子で彼がいるデスクへと近寄る。夕食後のひとときを神藤の部屋で過ごしていたふたり。紗月姫愛用のヴァイオリンを調弦し終えると、神藤は昨日のロシュティス社ライバル企業抜き打ち視察の件で、リサーチをかけていた今日の動きを確認し始めた。
 彼が仕事に入ったので、紗月姫は調弦したてのヴァイオリンを使い、邪魔にならない程度のBGMを添えていたのだ。

 あと一歩で神藤の傍に移動できるところではあったが、その前に彼は仕事のスピードが落ちた理由を口にして紗月姫の足を止めた。
「ロシュティスのスイス本社が動いています。どうやら、日本企業との契約が決まったようですよ」
 “まさか”の予感をふたつ抱えた彼女に、神藤はまずひとつめの“まさか”を解決させた。
「手を結ぶのは、葉山製薬で間違いがないようです。日曜日に、正式契約を結ぶようですね」
 曜日などは特に考えていないのか、それとも急いだのか、急誂えとも思える印象に、紗月姫は眉をピクリと動かす。モニターの文字を追う神藤の視線が止まり、彼はふたつ目の“まさか”を不安に変えた。
「その契約日から、アラン・ルドワイヤン社長の秘書が、ひとり正式に増員されるようです。――どうやら葉山側が、条件を呑んだようですね」
 徐々に紗月姫の柳眉が逆立ち始めた。その表情の変化に気づいているのかいないのか、神藤は話を続ける。
「アラン社長は、年明けからの始動を極秘に進められていた、ロシュティス日本支社の社長に就任予定です。スイス本社では、弟のレイン・ルドワイヤン副社長が新しく社長になります。……まぁ、実質的に本社を動かしているのは副社長だともいわれていますから、問題はないのでしょう」
 話しながら顔を上げた神藤は、紗月姫が憤りに震えているのを見て言葉を止めた。
 ヴァイオリンを携えた手が震えている。今にも高まる気持ちのまま、床へ叩きつけてもおかしくはない雰囲気だ。

「美春さんが……、了解したんだわ……。学さんは、決して交換条件などに応じる人ではないもの……」
 声が震えている。怒りは溜まっていくが、それが爆発しないのは、了解せざるを得なかった美春の気持ちが、そしてそれをどうにもできなかった学の気持ちが、紗月姫にも分かるからなのだろう。

 叩きつけてしまわないうちにヴァイオリンを神藤のデスクへ置き、紗月姫は唇を結んで歯痒い思いに耐えた。
(こうなってもまだ、私に何もするなとおっしゃるのですか……。学さん)
 学は、この件に関して、紗月姫が辻川の権力を行使することを望んではいない。もしも紗月姫が世話を焼いて動いても、その結果を快く思いはしないだろう。
 だが紗月姫は考える。動く理由が、おせっかいや身内を助けたいためというものではなかったら……。
「神藤……、私は、学さんと美春さんに、助けてもらったのよね……?」

 紗月姫の思考がスピードを上げて動き出す。考えがまとまってくると、彼女の口は饒舌なほどに動いた。
「私は、学さんに運命を変えてもらいました……。あれは私にとって、一生を決める大きな出来事だった。そのために、美春さんにもたくさんの辛い思いをさせた。私は……、あのふたりに救われた、そうよね?」
 紗月姫が口にしているのは、春に起こった一件だ。窮地に追い込まれた紗月姫と神藤を救い結び付けるために学が奔走し、美春も大いに心を砕き協力してくれた。 
 あのふたりが関わっていなければ、紗月姫は今頃どうなっていたのか分からない。

 椅子から立ち上がった神藤は、厳しい表情をした紗月姫の頭を抱き寄せ、ポンポンッと優しく撫でた。
「同じように、私も救われたよ。おふたりがいなかったら、私は今頃死んでいただろう……」
 彼の口調が変わったことで、“お世話役”としての勤務時間である二十二時を過ぎたのだと気づく。紗月姫は煌の胸に寄りかかると、希望を口にした。
「……“恩返し”がしたいの……」

 “力になりたい”という思いを許してはもらえないのなら、別の考えがある。
「今度は私が、運命の窮地に立った学さんと美春さんに“恩返し”がしたい。……そう思うことは、いけないことでも余計なことでもないわよね?」
 煌の手が紗月姫の髪を撫で、そこに唇を寄せる。
「私も、是非とも恩返しをさせてもらいたい。大丈夫だよ、もしも『余計なことをするな』と叱られたら、『余計なことをしてしまうほど紗月姫を心配させるな』と、言い返してあげるから」

 クスリと紗月姫から小さな笑みが出たのを確認すると、煌は手を離し、パソコンの前に戻って人差し指を立てた。
「スイス大使館へ連絡を取ろう。あとは……、ロシュティスのレイン副社長にも」
 どうやら紗月姫も、同じ指示を出そうと思っていたらしい。先に言われてしまったとばかりに苦笑いを呈した彼女ではあったが、すぐにその表情は厳しいものに変わった。
「スイスは午後の二時くらいかしら。ゆっくり話ができて、ちょうど良いわ……」
 弓を両手で持ち、彼女は今の張り詰めた思いをそこに込める。

「葉山学は、私の兄であるようなものです……。身内の苦渋は私の苦渋です……、このままになんて、できないわ……」

 弓全体に、折れてしまいそうな緊張感がみなぎる。だが、そんな紗月姫の手を煌の手がやんわりと握り、弓を取り上げた。
 そして彼は、張り詰めた紗月姫の心の弦を、頬笑みで懐柔する。
「折れてしまったら怪我をするよ。こんなことにエネルギーを使わないで、あのふたりを助けるために使おう?」

 紗月姫を落ち着かせた煌は、パソコンの前に戻り“恩返し”のために作業を始める。
 その姿を見つめながら、紗月姫は心の中で学と美春を思った。

 ――――負けないで。……貴方たちは、運命の愛で結ばれたふたりなのだから……。







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