理想の恋愛 完璧な愛・第12部(完結編)

第15章1(不安に包まれる朝)

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「遅いな……」
 腕時計を確認しては、自動ドアの向こうへ視線を向ける。
 葉山製薬本社ビルのエントランスで、柳原は忙しないほどにその動作を繰り返していた。
 目的の人間が、まだ出社してこないのだ。もうすぐ始業時間の九時になるというのに。
「坊ちゃん、何してるんだろう……」
 呟きについつい癖が出る。気を抜くと今でも学を「坊ちゃん」と呼んでしまうのは、いかに彼が学を慕っているかの表れだ。
 だが今の場合は気を抜いていたのではなく、緊張しすぎていつもの注意力がなくなっていたというところだろう。

 木曜日の朝は、昨日の雨が嘘のように晴れ渡った清々しい天気だ。
 いつもならば天気が良いという理由だけでも気分が良くなって、朝の挨拶にもハリが出るというのに、今朝の柳原はソワソワとしてばかり。名物警備員さん得意の朝の挨拶にも身が入らず、出社してきた社員が首を傾げるほどだ。
「……早く出社してくださいよ」
 彼はずっと待っているのだ。
(坊ちゃん……、お嬢さん……)
 学と美春が、一緒に出社してくる姿を。
 いつものように駐車場に車を置き、社員たちの様子を見るためにもこのエントランスから社内へ入る。「おはよう、御苦労さま」と向けられる笑顔、柔らかな態度の中にも漂う厳しさ。ふたりの姿を見ると気持ちが引き締まるのは、柳原だけではないはずだ。

 腕時計を確認し、外を見る。何度も繰り返される柳原の動作に、持ち場に着いた受付嬢たちも首を傾げた。
 気持ちを引き締めたい。それだけの気持ちで、彼はふたりの出社を待っているのではない。
 ふたり一緒に出社してくる姿を、確認したいのだ。

 昨日、雨の中で美春が決断を下した場には、柳原もいた。
 嘘のような衝撃的な出来事ではあったが、あの後、彼が仕事をあがる頃には、ふたりが一緒に歩いている姿も確認している。
 きっと、おかしな事態にまで発展はしていないのだ。昨日の雰囲気では、美春が学の秘書をやめて会社からいなくなってしまうという感じではあったが、そんなはずはない、有り得ない。
 先方との話し合いも決着付けて、いつもと変わりないふたりの姿を見られるはずだ。

 柳原は、それを信じて疑わない。
 それなので彼は、ふたりが出社する姿を今か今かと待っているのだ。
「あぁっ、もぅっ」
 あまりにも気持ちが急きすぎて、柳原は地団駄を踏んでしまいそうだ。しかしその時、もっと急いた声が彼の腕を引っ張った。
「ねぇ、専務は!?」
 何事かと振り返った先にいたのは、妻の詩織だ。いつもはおっとりとした顔を焦りに変えて、睨みつけるように柳原を見ている。
「まだ来ていないよ……。早く来ないかなって待ってはいるんだけど」
「美春ちゃん……、美春ちゃんも来ていない!?」
「一緒に来るんじゃないの? どうしたのそんなに慌てて」
 様子がおかしいと感じた柳原は、彼女へ向き直り、落ち着いてと言わんばかりに肩をポンポンッと叩く。
 しかし詩織は、大きく息を吐き、落ち着こうにも落ち着けない自分に苛立ちを示すように首を左右へと振った。
「美春ちゃんの席に……、美春ちゃんの私物が……、何もないの。綺麗に整理されていて、彼女の席じゃないみたい……。どうして? いきなり配置替えっていうわけじゃないわよね!?」
 詩織が焦る理由に、柳原は息を呑んだ。

 *****

「……そろそろ、行くか……」
 誰に言うのでもなくポツリと呟き、学は運転席を出た。
 ドアを閉める音が、無人の地下駐車場に大きく響く。既に始業時間を過ぎているのだ、ほとんどが社用車を利用している重役用駐車スペースに、学以外の人影はない。
 駐車場に入ったのは三十分以上前だった。始業時間を過ぎるまで車の中でぼんやりしていたことなど初めてだろう。そんなことをしようものなら、厳しい“秘書”の叱咤が飛ぶ。
 『専務! ほら、仕事、仕事!』

 笑顔で上司を諌める秘書の姿が思い浮かぶ。今にもこの助手席から飛び出してきて叫びそうな錯覚に襲われ、学はハッと顔を上げた。
 しかし、向かいの助手席側に人が現れる気配はない。当然といえば当然だ。今朝はひとりで出社した。美春とは、昨日の夕方から会ってはいない。
 帰りも別々だった。自分の仕事と私物を少し整理したいからと言って、美春が秘書課のプライベートオフィススペースにこもっていたのは知っている。残業の途中、来社した社外役員と話をするために専務室を離れたが、戻ってくると美春は既に帰った後だった。
 彼女の部屋のベランダへ行くことも、電話をかけることも出来なかった。
 ――――それをしてはいけない。
 心の中で、何かが自分を抑えつけていたのだ。

 エントランスへ下りることもなく、学はそのまま三十四階への直通エレベーターへ乗り込む。ドアが閉まってもエレベーターは動かず、数秒後に何故だろうとやっと疑問が浮かぶが、階数指定をしていないからだと気付くまで、しばらくかかってしまった。
 階数パネルに触れようとすると、いつもその操作をして振り返り、にこりと微笑む“秘書”の姿が幻になって視界に映り込む。その幻はすぐに消えるが、エレベーターが上昇する動きの中に柔らかな彼女の香りを感じた気がして、学は思わずきつく目を閉じ、こぶしで壁を叩いた。
「……美春……」

 美春の声が聞こえる。その姿が見える。感じるはずのない香りまで……。
 彼女が自分の手から離れるのだと思えば思うほど、その幻は強くなる。
 身体が酷く重かった。思考もどこかぼんやりとして、思い浮かぶのは美春のことばかり。

 エレベーターのドアが三十四階で開くと、ホールにはふたりの女性が立っていた。共に秘書課の女性だ。
「おはようございます、専務」
 ふたりは声を揃えて挨拶をしてから、今朝から秘書課の中で囁かれているおかしな噂を学に問おうとした。
 「光野さん、会社を辞めるんですか?」と。
 しかし、彼女たちはそれを実行に移すことはできない。学がふたりには目もくれず、エレベーターを降りてさっさと歩いて行ってしまったからだ。
「専務……?」
 ふたりは呆然と顔を見合わせる。あんな無愛想な学を見るのは初めてだ。社員の挨拶に応えるどころか、笑顔のひとつも見せず声もかけないで、無表情のまま立ち去ってしまうなど、いつもの専務には有り得ない。
 専務室に入るまで数人の社員とすれ違うが、学の反応はなく、誰もが首を傾げた。
「専務、どうしたんだろう……。いつもと違う……」
 そして誰もが、口々に疑問を呟いたのだ……。







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後書き
 こんにちは。玉紀直です。
 第15章、スタートさせて頂きます。

 美春が十字架を掲げた朝で終わった14章から続き、不安で始まる葉山製薬の朝から、15章は始まりました。
 異変に気づく秘書課、焦る柳原と、明らかに精神的な混乱を起こす学。
 波紋は広がり、更に混乱が起こります。

 少々心痛い展開になるかと思いますが、お付き合い頂ければと思います。
 どうぞ宜しくお願い致します。





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