理想の恋愛 完璧な愛・第12部(完結編)

第16章8(櫻井の大切な後輩)

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「立っていないで座ってくれないか?」
 繕い笑いが苦笑いに変わったのは、グレースの姿がベッドルームへと消えてから十五分ほど経った頃だった。
 櫻井をメインルームへと通し、彼にソファを勧めてアランは向かい側の椅子へ腰を下ろす。それから軽い世間話で繋いでいたが、櫻井は一向に座る気配を見せない。
「落ち着かないだろう、これでは話をしづらいと思うが? そろそろコーヒーもくる頃だ、座って待っているといい」
 アランは少々イラついているようだ。落ち着かない、というのは、この場のことではなく彼自身のことなのだろう。
 櫻井としては、部屋へ通してもらったらすぐに話を切り出そうと思っていたのだ。だが、客室係が持ってきたネグリジェを「すぐに着替えさせてきます」と言って別室へ向かったグレースの姿が気になり、なかなか切り出せずにいた。
 こちらが把握している状況から察するに、“着替える”のは美春だ。体調が悪そうだったという彼女は、今は起きているのだろうか。具合はどうなのだろう。
 今にも別室から美春が飛び出して来て、「係長、何をしてるんですか? あっ、サボりですねぇ?」と、おどけた笑顔を見せてくれるのではないかと期待してしまう。
「申し訳ありません。長居をするつもりはないのです。要件をお伝えしましたら、早々に失礼をしたいと考えております」
「要件? ああ、そういえば聞いていなかったね。何かな、葉山専務から伝言でも? それなら電話でもよさそうだが」
「いいえ。専務の指示ではありません。僕自身の判断で、どうしても社長にお伝えしなくてはならないと判断致しました」
 上司の命令以外で、ここへやってこようと思い立つ用件とは何だろう。微かな懸念と共にひとつだけ思いつくものはあったが、アランは敢えて口には出さずに櫻井が言うのを待った。
 櫻井は、その場に立ったまま、堂々と口にする。

「当社秘書課の社員。光野美春を、引き取りにまいりました」

 アランの表情から、繕い笑いも苦笑もすべて消える。懸念した名前が出たことに、彼は不快感を動かぬ表情で覆い隠した。
 返事はなくとも、櫻井の言葉は続く。
「契約の一件を踏まえ、本日、光野が社長の元を訪れているのは当然のことです。ですが、一日中というわけにはいきません。なぜなら、光野はまだ、当社の社員なのです」
 計ったようなドアチャイムが、台詞の合間を縫って鳴らされる。ルームサービスを届けにきた旨を告げる声が、刹那の沈黙に重い空気を漂わせる部屋の中へ響いた。
「彼女は、契約上社長の秘書になることが決まりました。その準備を急ぐためか、私物の整理も済んでおります。ですが、光野はまだ辞表を出したわけでも、秘書課の上司や同僚に、そして、専属の上司である葉山専務に、退職の挨拶をしたわけでもありません」
 ドアチャイムの音はベッドルームまで届いてはいないのか、グレースが出てくる気配はない。受け取りに出ようとアランが立ち上がるが、櫻井は当然の主張をやめなかった。
「光野はまだ、当社の社員であり、僕の大切な後輩です。彼女の職場は葉山製薬であり、つくべき上司は、今はまだ、葉山専務です。……このように一日中職場を離れることは、彼女の教育係として僕は許可をするわけにはいかないのです」

 アランは櫻井から顔を逸らし、コーヒーを受け取るためにドアへと向かった。
 真っ当すぎる説明を受けたせいなのか、それとももともと櫻井の忠犬ぶりが気にくわないせいなのか、込み上げる嘔吐感に片手で口を塞いでしまう。
(独断だと……? ふざけるな)
 忌々しさは大きくなるばかりだ。櫻井は自分の判断で美春を迎えに来たようなことを言ったが、それは違う。櫻井が美春を連れ帰るというのは、彼女が葉山の社員であるうんぬんという講釈より、何よりも学のためになることだ。
 櫻井が、学のために行動をしているのは明らかではないか。

 ルームサービスのコーヒーをワゴンごと受け取ったアランは、部屋の隅にあるバーカウンターの横で静かに止まった。
 櫻井はずっとアランが座っていた椅子を見たままで、振り向く気配はない。それを確認してカウンター内へと入りこむ。
「まぁ、そんな話は、コーヒーの一杯も飲んでからにしてくれ。まさか、連れて帰りたいのを急ぐあまり、コーヒーも付き合えないというわけではないだろう?」
 カウンターの引き出しから透明の小袋をひとつ取り出し、封を切る。微量の粉がひとつのカップに溶け込むのを確認し、アランは何食わぬ顔でワゴンを押した。
「アイスコーヒーのほうが良かったかい? まぁ、ひと息ついてくれ」
 櫻井の横で止まり、カップを一客差し出す。優位者の顔は、逆らうことを許さないかのように悠々と口角を上げた。
「僕も喉が渇いた。提携を結ぶ会社の社長とコーヒーも飲めないほど、君は頭の硬い男ではないだろう?」
 カップをソーサーごと受け取った櫻井の前で、アランが先に自分のカップを傾ける。
「お付き合いさせて頂きます」
 ひと言告げて、櫻井もカップを口に運んだ……。

 ――だが……。
「櫻井……係長……!」
 彼のコーヒーが口に入る前に、呼び掛ける声が彼の動きを止める。櫻井が顔を上げ、アランが軽く舌打ちしてから視線を流すと、そこにはベッドルームから這いずるように身体を進める美春の姿があった。
「飲まないで……、かかりちょ……」
「女史っ……!」
 美春の言葉の意味は分からなくとも、彼女の様子が尋常ではないことは分かる。櫻井は美春の傍へ駆け寄ろうと、カップをワゴンへと置いた。
 脚に力が入らないあまり、這って飛び出すことしかできなかった美春。それでも、動けなかったはずの彼女が櫻井の危機を感じ取り、グレースが止める間もなくベッドルームから這い出たのは驚くべきことだ。
 美春を動かしたのは、グレースのひと言だ。アランが、櫻井のコーヒーに何か細工をするかもしれないという、確証のない言葉。
 確実ではない言葉ではあるが、アランが他人に対して自分の思うがままにしてきたことを知ってしまっている美春には、あながち冗談には思えない。
「ミハル! 何をしているの、あなた……なんてこと……」
 追いつき美春の身体を抱き起こしたグレースは、この行動に理解ができず動揺を見せる。美春は薬の疲労で動けなかったはずだ。言葉を出すのも億劫だったはずなのに。
(いったい……、何がミハルを動かしたの……?)

「女史、どうした、どうしてここまで弱ってるんだ……!」
 メインルームの入り口で、立てないまでもグレースに上半身を抱き起こされた美春の傍に駆け寄った櫻井は、彼女の前に膝をつけて屈んだ。
「熱でも出たのか? 昨日雨に当たったから……。それとも、生意気に“知恵熱”か?」
「……かかりちょぅ……」
 櫻井の優しい憎まれ口に涙が浮かぶ。彼はコーヒーを飲んではいない。ホッとした気持ちは美春の表情を和ませた。

 だが、その表情はすぐに固まった。
 櫻井の背後に近付いたアランが、手にしていた筒状のものを彼の首に押し付けたのだ。
『忠犬は忠犬らしく、主人の傍で尻尾を振っているだけにしておけば、痛い目に遭わずに済むのに……』

 早口のフランス語を、理解できたのはグレースだけだ。
 櫻井が振り向く間もなく、パシュッと、空気を圧し潰した小さな音が筒から放たれた。







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