理想の恋愛 完璧な愛・第12部(完結編)

第16章9(美春がいるべき場所)

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「アラ……ンっ……!」
 驚いた美春が、片手をアランへと伸ばす。手に持った筒状の物を奪い取ろうとしたのだが、今の美春にそれができるだけの瞬発力はなく、また、音が聞こえてから手を伸ばしたこともあり、彼女は痛みに歪む櫻井の表情を目の前で見てしまった。
 伸びあがった拍子に崩れそうになった美春の身体を、グレースが慌ててシッカリと抱きとめる。そのお陰で倒れることはなかった。
 痛みが走った首を手で押さえて立ち上がり、櫻井は取り乱すことなくアランと対峙する。
「……アラン社長、……あいにく僕は、糖尿病患者ではありませんが?」
 櫻井の皮肉は遠回しの意味を含んでいたが、アランはすぐにその意味を察しフンッと鼻を鳴らした。
「残念だが僕も違う。このハイジェッターは被験者への投薬用に愛用しているものだ。……自分で使うこともあるが」
 アランが手にしているのは“ハイジェッター”と呼ばれる、針を使わない圧式の小型注射器だ。過去、日本ではジェットインジェクターと呼ばれた大きめの物が予防接種などの分野で活躍したが、神経系に与えるダメージの可能性など様々な指摘がされ、徐々に使われなくなっていった。
 圧し付けるだけで皮下注射ができる圧式という方法が手軽だと、小型のハイジェッターが糖尿病のインスリン注射用に用いられたこともあったが、結局広まることはなかった。
 日本での知名度が低いが、海外の現場では普通に使用されている。アランが研究用に持っていても何の不思議もない。
 知識の一環として、櫻井はハイジェッターの存在とインスリン注射に用いられたことを知っていた。そこから出た皮肉を、アランが皮肉で返したのだ。

「……何を……打ったの……?」
 美春が声を震わせる。アランが櫻井に何かを投与したことは間違いがないのだ。恐ろしい予想が、美春の脳裏を駆け巡った。
「何を……打ったの、アラン!」
 焦りなのか憤りなのかは分からないが、美春の身体には随分と力が入っている。そこには、今にもグレースの腕を抜け出していきそうな勢いがあった。

 美春を一瞥して、アランは片手でハイジェッターを弄びながら櫻井に哀れみの目を向ける。
「サクライ、君は優秀だが、優秀すぎて馬鹿な男だ。上手くいきかかっているものを、なぜ壊すような真似をする? どんな理由をつけようと、この段階でミハルを連れ帰ろうとするのはすべてにおいてマイナスだろう」
 櫻井がここへやってきた理由を知り、美春は彼の背中を見上げる。彼は本当に自分を連れ戻しに来てくれたのだ。それが学の指示であるとは、今の状況では考え難い。だとすれば、これは彼の独断なのか。
「係長……」
 いつも仕事において美春に厳しい櫻井。皮肉も嫌味もたっぷりではあるが、そのすべては的確で、美春を非の打ちどころのない完璧な秘書に育て上げようという後輩に対する愛情がこもっていた。
 その情は、学の指示なしでも、彼を大切な後輩のために動かしてしまうまでにしているのだ。
「……無駄なんかじゃありませんよ……」
 櫻井はアランの言葉を否定する。だが、次の瞬間、彼の背中が崩れ落ちた。
「……係長!?」

 完全に倒れてはいない。彼は床に膝と片手をつき、項垂れてしまいそうな額を手で押さえている。
「何をしたの、アラン! 何を打ったの!」
 興奮する美春に、アランは落ち着けと言わんばかりの苦笑いを見せ、彼女を宥めにかかった。
「そんなに興奮しては倒れてしまうよ。そんなに心配するんじゃない。ただの睡眠導入剤だ」
 その言葉に間違いがないのなら、櫻井は睡眠薬を打たれたことになる。だが、美春の前にある彼の背中は、大きく息を荒げ揺れ動いているのだ。ただの睡眠薬で、こんな呼吸困難を起こすだろうか。おまけに効果が出るまでの時間が早すぎる。これだけで、これが正規の睡眠導入剤でないことは察しがつくのだ。
「大人しくコーヒーを飲んでおいてくれれば、幻覚の中で苦しまずに眠れたのに。……あれは僕が使っているのもだから、完成品なんだよ。飲まなかったばかりにこっちを使うことになってしまった……。まあ、被験者を物色中だったのでね、ちょうど良かった」
 辛うじて起き上がっていた櫻井の身体が床に崩れた。うつ伏せに倒れた彼は、顔を傾けアランを睨み上げている。苦しそうだった呼吸は治まりを見せているようだが、左手で自分のスーツの胸を鷲掴み、苦しげに眉を寄せていた。
「胸苦しいかい? こっちは麻酔のようなものだからね。……強制的に神経を麻痺させて睡眠状態へと持っていくんだ。そのために、呼吸困難と呼吸抑制を交互に起こす。正直、改善すべき点はそこなんだが……強力な効果を期待すればするほど改善を躊躇ってしまう。心臓発作という大きなリスクの可能性があっても、だ。……まあ、キミのようは、心身ともに強靭そうな男なら、発作を起こすこともないだろう?」
 投げ出された櫻井の右腕を、アランは邪魔だと言わんばかりに蹴りつけた。
「アラン!」
 驚いた美春が叫ぶが、アランは悪気なくハハハと声をあげて笑った。
「大丈夫だ、ミハル。今のサクライは、既に全身の感覚がないはずだ。叩かれようと殴られようと、例え熱湯をかけられようと、彼は何も感じず、このまま眠りに落ちるよ。――目覚めてからの痛みは保障しないけどね。試してみるかい?」
「アラン!」
 叫びは怒鳴り声に変わる。憤る美春を見ても、アランはただ笑うだけだ。
 
 美春は涙が浮かんだ。
 何ということをするのだろう……。
 どうしてこんなことができるのだろう。
 ただ話合いに来た人間に対して、その人間の命にもかかわることを、なぜできるのだろう。

「……光野……」
 瞼が落ちかけ、消えそうな意識を押し留めているのか、彼からは聞いたことのない息の詰まった声が、その口から発せられる。
 同時に顔が微かに傾き、櫻井は美春に、彼女さえもが諦めかけていた希望を口にした。
「――――専務の所へ……帰れ……」

 溢れた涙が零れ落ちる。
 それは、叶わないことと最初から諦め、それでも、一番に望んでいた願いではないのか。
「自分が……いるべき場所を、忘れるな……。お前の場所は、専務の元だろう……」
「かかり……ちょ……」
「まったく……、世話がかかって大変だ……。この、……馬鹿……」
 傾きかかっていた顔も落ち、胸を掴んでいた手の力も緩んでいく。眠りへ引き込まれていく自分を必死に抑えていた櫻井だが、限界は近いようだ。

 櫻井の言葉が胸に詰まる。
 涙は止まらず、美春を支え抱いているグレースの手を濡らしてしまうほどに零れ落ちた。

 ――――自分がいるべき場所を、忘れるな。

「……櫻井、さん……」
 意識が途切れる瞬間、美春の涙声が櫻井に聞こえたのだろうか。
 瞼が落ちた彼の目元が、ほんの少し、和んだ……。







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