溺愛マリッジ

第一章・2月/1

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「はい、お疲れ様です!」
 スタジオのドアを開けた瞬間聞こえてきた声に、青年は表情を苦々しく歪めた。
「やっべぇ……遅刻……。怒られる」
 思いのまま漏れる泣き言。制作プロダクション会社に就職して三カ月。慣れてはきたが、六か月目までは試用期間だ。付かせてもらっているプロデューサーは時間に厳しい人物。遅刻だけには気をつけていたというのに……
 今日の仕事は製薬会社の企業ポスター撮影だ。ポスター自体は自社ビルを前庭から捉えたアングルで撮影したものを使用するようだが、コンセプトフレーズを入れる下段にモデルを配置するらしい。
 その段取りをするための仕事だったのだ。
 青年はこっそりとドアを閉め、さして広くはない撮影スタジオを見回した。
 スタッフが数人、そしてカメラマン。だがその中でも、青年の目は今回のモデルらしい女性に惹きつけられる。
(ぅわっ……、美人っ)
 撮影用に使用された青いクロマキーの前に、ひとりの女性が立っている。ローパンプスにタイトなスーツ姿であるにもかかわらず、背が高くかなりスタイルも良い。背に流れる少々ウェーブがかった髪は落ち着いた栗色。ナチュラルメイクのせいなのか、それとも元々色が白いのか、大きな瞳の輝きと唇の桜色が、彼女の魅力となって際立っているように見える。
 年の頃は二十代初め、いや、それにしては上品な落ち着きを感じる。二十代半ば以上なのかもしれない。
 どこのモデルクラブから発掘してきたのだろうと、青年はややしばらくその場に立ちすくみ、モデルの女性に見惚れた。
 今日の撮影を担当したカメラマンは、知名度が高いぶん注文が多く愛想が良くないことでも有名だ。それがどうだろう。よほどこのモデルが気に入ったのか、笑顔で彼女に話しかけに行っている。
 周囲のスタッフもまきこみ、その空間は和やかな雰囲気に包まれていた。
 どことなく近寄りがたく遠巻きに眺めていると、青年はいきなり背後から頭をぽかっと殴られた。
「いてっ」
「いてっ、じゃねーよ。今頃来やがって。ほら、モデルさんにお茶でも持って行ってやれ」
 機材を片手にした先輩アシスタントにパンフレットで頭を連打され、青年は「すいませーん」と言いながら頭を押さえて逃げる。だが内心、良い役目をもらったと胸が高鳴った。お茶を持っていけば、無理なくモデルを間近で見ることができるではないか。
 用意されていた紙コップに、ペットボトルからストレートティーを注ぎ、青年は急ぎ足でモデルへと近づいた。
「お疲れ様です。どうぞ」
 ひと声かけて紙コップを差し出すと、ちょうどカメラマンとの会話が途切れたモデルが彼を見る。その表情の秀麗さに、青年は全身が硬直した。
(ち、近くで見たら、もっと美人っ!)
 差し出された紙コップを、彼女は微笑みながら丁寧に両手で受け取る。
「ありがとうございます。すみません。緊張して喉が渇いていたので、嬉しいです」
 穏やかで、とても柔らかく耳に入る声だ。癒し声とでもいおうか。彼女に話しかけられ、その声を耳に取り込んだ瞬間、彼の強張りも解けた。
「そ、そうなんですかー? いや、綺麗なモデルさんだから、撮影慣れしてるんじゃないかなとか思いました」
「とんでもありません。こんなふうに写真を撮って戴くなんて初めてで、引きつった顔しか撮れていないかもしれません。ねえ、先生」
 彼女の頬笑みは、カメラマンへと移動する。話を振られて嬉しいのか、カメラマンはしきりに「そんなことないよ、綺麗に撮れているよ」と強調した。
 新人のモデルなのだろうか。そう考えたとき、ふと青年の目にクロマキーの外に立つひとりの男が映った。
 仕立ての良いライトグレーのスーツに身を包む男は、微苦笑をその口元に湛えて彼女を見ている。背が高く端正な顔つきだが、どこか女性っぽい優しげな面立ちだ。
 マネージャーなのだろうか。だが青年の目は男のスーツの襟元へ引きつけられる。
 そこに燦然と輝いているのは弁護士バッジだ。先日弁護士事務所が企画するPRの仕事を手伝ったばかりなので、バッジの形状はよく覚えている。
 なぜこんな場所に弁護士が。不可解な思いが胸をよぎったとき、弁護士がモデルへ声をかけた。
「飲んだら行くよ。そろそろ迎えが来る時間だ。遅れるとうるさいからね」
「うん、分かった」
 モデルの返事がやけに砕けている。よく見ると、彼女の左薬指には指輪がはまっているではないか。もしやふたりは夫婦では。
 青年がそんな推測を決定づけようとしたとき、スタジオのドアが大きな音をたてて開いた。
 反射的に振り向き、青年は再び身体を固める。そこには、長身で精悍な男が足音も高らかに近づいてくる姿があった。
 しかもその男たるや、まるで眉目秀麗を絵に描いて代表にしてしまったかのような美丈夫だ。ひと目で上等と分かるスーツを身にまとった立ち姿には風格が備わり、堂々としたものが窺える。
 身体が固まってしまったのは、同性ながら一瞬この男に見惚れてしまったせいかもしれない。
 だがそんなことではいけない。撮影が終わったとはいえ、ここは仕事場だ。関係者以外に出入りさせるわけにはいかない。
「すいませーん、一般の方は……」
 青年は慌てて男へ駆け寄ろうとする。その瞬間、横から先輩アシスタントに腕を引っ張られ止められた。
「馬鹿、お前、なにやってんだよ、駄目だろうっ」
「せっ……先輩……、だって、あの……」
「クライアントだぞ、葉山グループのっ」
「へっ?」
 素っ頓狂な声を出し、目をぱちくりとさせる。そんな青年を一瞥して、男はふっと口角を上げモデルへと近づいていった。――そして、その腕で彼女を抱擁したのだ……
「お疲れ様、美春。迎えに来たよ。帰ろう」
「ありがとう。大丈夫よ、学。楽しかったわ」
 彼女の頭をポンポンッと撫でる彼の左薬指には、彼女の物とお揃いの指輪がはまっている。甘いムードでふたりの世界を構築するこの空間は、さながらピンク色のヴェールで隔離されているかのようにも見えた。

 *****

(……また始まった……)
 周囲がこのふたりの世界を気恥かしい思いで見つめるなか、ただひとり、妙に冷めた目をする男がいる。
 襟に弁護士バッジを光らせた、田島総合法律事務所の弁護士、田島信(たじましん)だ。
 そんな信に目を向け、葉山グループ筆頭企業、葉山製薬専務取締役、葉山学(はやままなぶ)は、半年前に入籍した愛しの妻、美春(みはる)をその腕に抱きながら首を傾げた。
「なんだ田島、まだいたのか?」
「……葉山……、お前なぁ……」
 美春以外、まったく眼中に入ってはいない。
 こんな扱いをされては、葉山専務の右腕と称される彼が反乱を起こす日も近い……のかもしれない……


【続きます】






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