溺愛マリッジ

第三章・4月/2

 ←5/5 遅れましたが第三章です →第三章・4月/3

「――以上が、本日の予定となっておりま……す……」
 我ながら、言葉の最後が締まらなかったような気はしている。
 美春はシステム手帳を開いたまま顔を上げる。目の前にあるのは、見慣れた専務のデスク。しかし、そこに本人はいない。
「……おそれいります……。専務……」
「なんだい?」
「なにをしていらっしゃるのですか?」
「美春君を見ているのだけれど?」
 “それがなにか?”。続きの言葉はなくとも、彼はその口調で語る。
 今日のスケジュールを伝えるべき専務は、美春の横にいる。いつもはこの大きなデスクの向こうで椅子に腰かけている彼が、今は美春のかたわらで立ったまま報告を受けているのであった。
 出社して仕事モードには入っているが、どうも学の様子がおかしい気がする。どこが、といわれると断定しづらいのだが、なんというか雰囲気が……
 ――いつも以上に、甘ったるい……
「下げさせて良かった。やっぱり綺麗だ」
 学の手が美春の髪に触れる。肩にかかるひと房を取り、真綿でも掴むかのようにふわりと持ち上げ、彼はそこに唇を付けた。
「世界一の……春の栗色だ……」
 学の囁きにドキリとする。最近あまり聞くことのなかった言葉は、幼い頃によく彼が口にしていた言葉だ。
 いつもはサイドアップにするか、もしくは後ろでひとつにまとめている髪を、今日はそのまま下ろしている。出勤準備の際、髪を整える時間がなかったというわけではない。今日は下ろしていてくれという、学の希望があったからだった。
 もしもこれが普段なら、「だらしなく見えちゃうわ」のひとことくらいはあったかもしれない。今日は誕生日だしという気持ちが、美春の言葉を止めたのである。
「で? 今日は残業になる?」
 髪から手を離し、学が尋ねる。もしかしたら終業後はデートなどを考えているのだろうか。
「進捗次第です。残業を回避したいのでしたら、専務に頑張っていただかなくては」
 秘書の立場として、ボスに残業は避けたいと言われれば、それなりの調整をする心積もりはある。学に張り切ってもらおうと故意に言ってみたのだが、彼は表情を和めて責任を美春へ振った。
「美春君は、今日は残業したくない?」
「え……? は、はい、そうですね……」
「そうか。では、頑張るとする」
 学は優雅な微笑みを崩さぬままデスクへと向かう。彼の誕生日であることを考えて「そうですね」と返事をしたのだが、そう答えてくれるだろうという彼の思惑に乗せられてしまった気がしなくもない。
(やっぱり、夜はデートなのかな)
 長年の例で考えるのなら、それで間違いはないだろう。
 美春はひとまず専務室を出て、秘書課のオフィスへと向かった。
「……春の栗色……かあ……」 
 胸の上に流れる髪に指先を絡め、学の言葉を繰り返す。
 彼が美春のためにだけ使ってくれる言葉。最近は耳にしなくなっていただけに、なんとなく口元が緩んでしまう。
(それにしても、やっぱり今日の学はいつもと違うような……)
 髪を指先でくるくるともてあそびつつ、今朝からの出来事を思いだしていった。
『美春、今日のスーツはこれにしよう。ブラウスはこっち』
 美春が動く前に、着替え一式を用意してくれた学。もちろんそこには下着類も含まれている。
 彼が選んだからといって、スーツのスカートが短いタイプだとか、下着が奇抜な色合いだったなど、下心が浮かび出たようなセレクトであったわけではない。
 白に刺繍をあしらった比較的シンプルで綺麗目な物。なので美春も、そのときは特に驚くようなことはなかった。
 だが『着せてやろうか』と言われ、少々動揺してしまったかもしれない。
 朝食のときも、彼は美春の席を整え、彼自らコーヒーを淹れてくれた。
 甲斐甲斐しく新妻の世話を焼く学を目に、葉山の両親も微笑ましげに笑顔で見守っていてくれたが、さすがに『食べさせてやろうか』発言が出たときにはその笑顔が固まってしまったのである。
 出社は学の車で一緒に行く。美春のために助手席のドアを開けるのは、学にとってハンドルを握ることくらい当然のこと。今日はそこにシートベルトを引いて着けてくれるというオプションが存在した。
(なんだろう……。なんか、気を使われすぎているような……)
 今日は学の誕生日だ。気遣いを見せなくてはならないのは本来美春のほう。誕生日プレゼント代わりに彼が夜のデートに美春を連れ出す気なのだとしても、こんな根回しは要らないはずなのである。
(もしかして、あらかじめ気を使って、私の機嫌を損ねないようにしておかないとできないようなお願いをするつもりだとか……)
 ありえる……。彼のお願いが突拍子もないことだとしたら、美春の機嫌ひとつで彼女の返事は変わってしまうかもしれない。
 だとすれば、否応なくご機嫌取りの根回しはしておかなくてはならない。
(ご機嫌取りまでしなくちゃできないような、お願い?)
 考えこむほどに歩調は遅くなり、美春はとうとうオフィスの手前で立ち止まってしまった。
 最近、学の前で、なにが見たい、なにがしたい、なにが食べたいなどの願望を口にした覚えはない。だとすれば、今年こそ彼のお願いは“学がしてほしいこと”そのものではないだろうか。
 それはもちろん大歓迎。
 学の誕生日なのだから、おかしな根回しなどせずストレートにお願い事を言ってくれても良いのにと思う。かえって、学らしくないような気もした。
(学は、なにをお願いしたいんだろう)
 深く考えこんでしまいそうになったとき、ポンっと肩を叩かれた。
「美春ちゃん、おはよー。今日は髪縛ってこなかったんだね?」
 詩織である。いつものニコニコとした笑顔で美春の肩を二回三回と叩き、控えめに髪の表面に触れた。
「美春ちゃんの髪ってきれいだよねぇ。ふんわりしてて艶々で。やっぱりあれかな、週に一回とか二回とか、トリートメントに精を出すほう?」
「んー、自分ではやらないかな……」
「あっ、そうだったっ。美容院とかに行くんだよねっ。美春ちゃんってばセレブな奥様だしっ」
「やっ、やめてよぉっ」
 手を引いておどける詩織に、美春も苦笑いで返す。
「美容院とかには行かないよ。家でお風呂に入ってるとき、ついでに時々やってくれるの」
「……専務が?」
「……う……うん……」
「ごちそうさま」
「お、おそまつさま」
 自分でやらないのなら、誰かがやってくれる。葉山邸従事のメイドなどではなく、当然愛しの旦那様がやってくれるのだろうと見当をつけた詩織は、よい勘をしている。
 美春と仲が良い分、専務夫婦の動向は心得ているともいえる。
「そうだ、詩織ちゃんにちょっと訊くんだけど……」
 これを利用しない手はない。詩織ならば、客観的な意見をくれそうだ。
「私の旦那様ってさ、誕生日になにがしたそうだと思う?」
 小首を傾げて尋ねる美春を、詩織はキョトンッとして見つめる。
「誕生日? そういえば専務って四月生まれだっけ。何日?」
「今日なの。だから本人が喜ぶようなことをしてあげたいんだけど、どんなことが喜びそうかな? なんかね、本人はもう考えてあるみたいなの。朝から妙に私に対して気を使うのよ。そんな根回しをしないと言えないことなのかなとか考えちゃって……」
「そっか、それはおめでとう。あとで専務を見かけたらお祝い言っておかなくちゃ。……うーん、そうねぇ……、専務がやりたそうなこと……」
 視線を斜め上に、詩織が考えこむ。「うーん」と唸り眉を寄せたが、その表情が徐々に困ったものに変わってきた。
「……専務、だよね……。“あの”専務が、根回ししてでも“美春ちゃん”に、頼みたいこと……」
 困った顔が、なぜか赤く染まっていく。どうしたのだろうと美春が詩織に顔を近づけた瞬間、彼女は動揺して飛びのいた。
「も……もうっ、そんなこと訊かないでよっ。い、言えるわけがないでしょうっ。やだなぁ、美春ちゃんのエッチっ。ごちそうさまっ」
「え……えっち……って……」
 詩織は逃げるように美春の前から走り去っていく。その後ろ姿を眺め、美春は呆気にとられた。
 なにを想像されてしまったかより、愛しい旦那様は周囲の人間にどんな印象を持たれてしまっているのか。そのほうが気になってしまった美春であった。


【続きます】






もくじ  3kaku_s_L.png 2017・短編集
もくじ  3kaku_s_L.png 溺愛マリッジ
もくじ  3kaku_s_L.png 恋のエトセトラ
総もくじ  3kaku_s_L.png 迷宮の天使*LS*
総もくじ  3kaku_s_L.png 恋桜~さくら・シリーズ
総もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
【5/5 遅れましたが第三章です】へ  【第三章・4月/3】へ

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【5/5 遅れましたが第三章です】へ
  • 【第三章・4月/3】へ