溺愛マリッジ

第四章・5月/1

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「ママぁー」
 今にも羽が生えて飛んでいってしまいそうなほど、軽やかでフワフワとした声。
 甘えた声音はとてもかわいらしく、美春はその声を耳に入れた瞬間、愛しの旦那様がホワイトデーに作ってくれるマシュマロを思いだしてしまった。
 直後、声と同じくらいふわふわとした柔らかく小さな手が、彼女の手に絡まる。
 どうやらさっきの呼びかけは、美春に向けられたものだったらしい。そうとは思っていなかった彼女は、驚いて自分の左側を見た。
 そこにいたのは、小さな男の子。まだ四歳か五歳くらいだろう。声のかわいらしさからてっきり女の子だと思っていたので、美春はつい目をぱちくりとさせてしまった。
 しかし、それ以上に大きく目を見開いてキョトンッとしたのは、男の子のほうだったのである。
 ――この人は、ママじゃない。
 目が合って、男の子はやっと理解をしたようだった。おそるおそる掴んでいた手を離し、美春をじっと見ながら後退する。間違えたことを怒られるとでも思っているのか、丸くなった大きな目には不安の色が浮かんでいた。
 美春は軽く屈み男の子と視線を同じにすると、にこりと微笑みかけた。
「私、ママに似ていたの?」
 彼女の微笑みと優しい声音に安心したのか、男の子は後退した足を一歩前に戻す。ゆっくりと腕を上げ、美春の肩にかかる栗色の髪を指差した。
「ママと同じ髪の色……。ママ、昨日茶色にしたんだ」
「茶色……」
 美春はふと、陽射しが眩しい初夏の空を見上げる。落ち着いた栗色は彼女自身の髪の色。しかし、ときにそれは、眩しい光の中で光沢を持ったブラウンに輝くことがある。
 小さな子どもに、栗色とブラウンの細かい区別などない。茶色は茶色。それだけだ。
「そう。それで間違えちゃったのね。ごめんね、ママじゃなくて」
 ほんわりとした美春の雰囲気に、男の子はまたひとつ警戒心を解く。手を握ってきたときと同じ距離まで近寄ってくると、頬を染めてえへへと笑った。
 幼稚園くらいの年頃だろうか。小さく細い男の子。赤くなったのが目立つほどに色が白い。
 平日の昼間。会社員ならばともかく、人がたくさん行き交うこのオフィス街で、こんな小さな子どもは場違いにも思えた。それよりも、当の母親はどこにいるのだろう。
 美春は周囲に視線を馳せる。すぐ目の前には銀行。隣には一階部分がコンビニになっているオフィスビル。もしかしたら、母親がATMにでも気を取られている隙に銀行から出てきてしまったのではないだろうか。
 銀行に入って一緒に探してあげよう。美春がそう思ったとき、彼女を指差していた小さな手が勢いよくさらわれた。
「もう! 傍を離れるなって言ったのに! なんで勝手にウロウロするの!」
 その金切り声に驚いた美春は一瞬動きが止まる。声の主は、すぐに男の子の手を引いて歩きだした。
「ほんと手がかかるんだから! 早く歩きなさい!」
 男の子が探していた母親なのだろう。緩いウェーブのかかった茶色の髪が背中の中央で揺れている。髪の雰囲気は美春と似ているので、パッと見た瞬間に間違ってしまうのは無理もないだろうかと思えた。
 美春はスーツ、母親はカーディガン。着用しているものは違ったが、そこまで気にかけられないほど、男の子は必死だったに違いない。
「……あんなに、怒らなくても……」
 つい、ポツリと感情を零してしまった。
 状況から見て、男の子が美春と話をしていることは母親にも分かっただろう。なのに母親は、美春には目もくれず男の子を引っ張っていってしまったのである。
 男の子は、ずんずんと歩いていく母親について行くのがやっとだ。小走りになりながらも、美春に手を振ろうとしたのか振り向きかかる。しかしさらに強く手を引かれ、転びそうになりながら母親と共に人ごみに中へ消えていった。
 ――人それぞれの家庭には、他人には分からない事情というものがある。それを知らないまま、批判や憐れみを態度にしてはいけない。
 それは分かっている。
 だが美春は、堪らなく切なくなる気持ちを抑えられずにいた。
 自分にもいつか、子どもができるだろう。
 それを考えると……、こんな光景は、なんとなく居た堪れない……
「美春ちゃーん」
 すっかり視界から消えてしまった親子に切なさを誘われていた美春だったが、呼びかける声で我に返った。
 目の前の銀行から出てきた詩織が、美春の元へ駆け寄ってくる。
「お待たせ。ごめんね、付き合ってもらって」
「ううん、お昼休みの時間はまだあるし。大丈夫」
「はい、お土産」
 そう言って彼女が差し出した手のひらには、かわいらしい包みが三つ載っている。セロファンの左右をひねってある形はキャンディを思わせた。
「銀行の窓口の横にあったから、もらっちゃった。『待ってる友だちの分ももらっていいですか』って訊いたら、綺麗なお姉さんにくすくす笑われちゃった」
「詩織ちゃんがひとりで食べるんだと思われたんじゃないの?」
「しっ、失礼だなぁ。マシュマロが欲しいくらいでそんなこと言わないよぉ」
「マシュマロなの? これ」
 美春は詩織の手からひとつ取り、包みを開ける。出てきたのはピンク色のマシュマロ。かわいらしい雰囲気につられてパクリと口に入れると、詩織にからかわれた。
「大企業の専務夫人が往来で立ち食い。こんな姿が見られるのも同僚の特権よね」
「なに言ってるのー」
 笑いながらもうひとつ取り、口に入れる。ふわりとした甘さに、固まりかけていた心も溶けていく気分である。
「美味しいっ」
 んふ、っと嬉しそうに肩をすくめると、最後のひとつをスーツのポケットに入れられた。
「それと、旦那さん以外にそんなかわいい顔見せてくれるのも、同僚の特権かなあ」
「詩織ちゃん、おだててもなんにも出ないよ」
「本当?」
「……ジュース、おごる」
「やったっ」
 ふたりで笑い合いながら歩きだす。笑い声が途切れたとき、詩織が感慨深げなひとことを発した。
「……あと、一カ月だね……」
「え?」
 訊き返すも、美春はすぐにその意味を悟る。
「そうね。……あと、一カ月……」
「緊張する?」
「入籍はしているけれど、やっぱり緊張はするし……。でも、すっごく楽しみ」
 美春は初夏の空を見上げる。
 ――結婚式まで、あと一カ月。
 学を思いだした美春は、口腔の甘さに誘われて、久しぶりに彼が作ったマシュマロを食べたくなってしまった……


【続きます】






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